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人はなぜ勉強するのか?(98)

 


  必要最低限の宿題が自ら考える生徒をつくる


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前回の人はなぜ勉強するのか?(97)では、学生が取り組む宿題というものも「メタ認知」の観点から考え直してみました。


理想としては、自分で何を勉強すべきか考えて取り組むのが良いのでしょうけれども、現実的にはそこまで成熟していない生徒には、ある程度先生主導で宿題を出さなければならないということもあります。


つまり、生徒一人一人の現状に合わせて宿題を出したり、自分で考えさせたりしていくべきだと思いますが、学校や塾などの集団授業では限界がありそうです。


私が函館に来て驚いたことは、高校が補習やら講習やらいろいろ行ってくれることでした。


私の高校では一度もありませんでした。例え講習などがあったとしても出席しなかったでしょう。高校の先生は、口癖のように「君たちはどうせ自分で勉強するから」と言っていたように記憶しています。宿題もほとんど出された記憶はありません。


学校がいろいろしてくれることが良いことなのか、その生徒のためになっているのか考える必要があります。


前回の人はなぜ勉強するのか?(97)で最後に述べたように、「言われたことはできる」から「言われなくてもできる」に変わらなければ、そこから先の「伸びしろ」にいつか限界が訪れます。


どうも周囲からさまざまな親切な行為を受けた結果、自ら考えない「受け身」の生徒が増えてしまったのかもしれません。


学校や塾の授業でも補習でも講習でも何でもそうですが、授業を受けるだけで成績が上がるわけではありません。結局のところ、自ら積極的に予習なり復習をして、ノートをまとめたり、問題を解いたり、教科書を読んで自分のものにしていく必要があるのです。


私は環境が許せば必要最低限の宿題しか出さないようにしています。


「言われなくてもできる」生徒になってほしいからです。


必要最低限の宿題を終えてから、自ら考えて必要なことを必要なだけ勉強してもらいたいと考えています。


「言われなくてもできる」生徒は、自分の勉強時間を確保したいと考えています。それを宿題で邪魔しては、「言われなければできない」生徒を創り出してしまいます。


先生が宿題さえ出さなければ、生徒は「言われなくてもできる」ようになるわけではないでしょう。究極の「言われなくてもできる」生徒を創り出すためにどうしたらいいのか、次回は、そのことについて考えていこうと思います。



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