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人はなぜ勉強するのか?(97)

 


  「言われたことはできる」は「言われなければできない」と同じ



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前回の人はなぜ勉強するのか?(96)では、問題を解く時に正解まで「寄り道」せず最短距離で行かなくても構わないが、正解へたどり着く道の入り口にすら到着していない、つまり「寄り道」どころか完全に「迷走中」という場合、その理由を探るべきだというお話をしました。


問題を解いているときに何をすべきかわからないとか全く関係ないことをして「迷走中」の生徒は、問題を解くために何が必要か、そのために何が必要かと筋道立てて考えることができていないので、もっと「メタ認知」を鍛えるべきだというお話もしました。


自分の中の客観的な「自分」が、自分を冷静に分析することこそ「メタ認知」だとするならば、学生が取り組む宿題というものも「メタ認知」の観点から考え直す必要があります。


それというのも、自分を疑い、世界を疑い、考えて、考えて、考え抜いた結果、何をどれくらい勉強するかも自分で考えるべきだからです。


塾や家庭教師の出す宿題の分量には、いろいろな意見があります。概ね、中学生を対象にしている塾では大量の宿題が出ているように思います。


これは、果たして良いことでしょうか。


保護者の中には、先生に宿題をたくさん出して欲しいと要望する人も多いと思われます。


誤解を恐れずに言うと、これは保護者や塾の自己満足になりかねません。


宿題を多くやりさえすれば成績が上がるとか、宿題がたくさんあればその分だけ勉強する時間がかかるのでゲームやスマホで遊ばずに済むという考えです。


前者は、宿題が多すぎてその生徒にとって本当に必要な勉強をする時間が取れない恐れがあります。後者は、宿題が終われば、他に何もせずゲームやスマホに時間を取られる可能性があります。


出された宿題をきちんとできるというのは、それ自体は大事なことです。


ただ、ここで考えなければならないことは、「言われたことはできる」というのは裏を返せば「言われなければできない」ということと同じだということです。


大量の宿題を出されて、それをこなしている生徒は、逆に宿題を出されなくなったら自分で考えて勉強することができなくなるかもしれません。宿題さえ終われば何をしても良いだろうと考えて遊んでしまう生徒にとっては、自分にとって必要な勉強を考えることはないでしょう。


「言われたことはできる」から「言われなくてもできる」に変わる必要があるのです。



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