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人はなぜ勉強するのか?(37)


ジャッキー・ロビンソンとレオ・ドローチャ―


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みなさんは、ジャッキー・ロビンソンという人を知っていますか。


知っている人は、野球好き、特にアメリカのメジャーリーグ通ではないかと思います。あまり一般の人にはなじみの無い名前かと思います。英語の教科書に出てきたから知っているという人もいるかもしれません。


ジャッキー・ロビンソンは、アメリカのプロ野球であるメジャーリーグが、アメリカンリーグとナショナルリーグの2リーグ制になって以降初めてのアフリカ系アメリカ人選手です。


ジャッキー・ロビンソンは、1945年にブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われ、1945年8月23日にドジャース傘下のAAA級モントリオール・ロイヤルズへ入団します。


この時点では、まだマイナーリーガーですが、戦後間もないことの話です。マーチン・ルーサー・キング牧師などが活躍する公民権運動が1950年代から1960年代ですから、人種差別が激しかった時代です。


メジャーリーグのオーナー会議ではドジャースを除く全15球団がロビンソンのメジャーでのプレーに反対していたそうです。チーム内でも一緒にプレーしたくないと移籍する選手もいたそうです。


そんな時代背景の中、ジャッキー・ロビンソンのメジャーデビューの後押しをしたのが、ブルックリン・ドジャース監督のレオ・ドローチャーです。


「私は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと構わない。私はこのチームの監督である。優秀な選手であれば使う。もし私に反対する者がいたら、チームを出て行ってほしい」と語ったそうです。


実は、この監督レオ・ドローチャーのお孫さんが、私の大学時代のルームメイトの一人なのです。ダンといいます。


ある日、部屋で話をしていると唐突にダンが「おじいちゃんは、メジャーリーグの監督だった」という話をしたのです。


当時、スマホなんてものはなかったし、インターネットは使えましたが、今ほど情報量がありませんでした。ましてや大学のコンピュータルームに行かないと使えなかったのです。だからすぐにその場で調べて、確認するなんてことはできなかったので、後日、大学の図書館へ行って本を調べました。


本で調べると、確かにブルックリン・ドジャースの監督としてレオ・ドローチャーの名前がありました。ジャッキー・ロビンソンの話は、ダンと話はしませんでしたので、おじいちゃんが人種差別に敢然と戦っていたことをダンが知っていたかはわかりませんでした。


いずれにしても、ダンは私に対して差別的なことは一切しませんでした。むしろ、いろいろと助けてくれました。


他の部屋のアメリカ人が私に差別的な発言をしても、何と言ったかは「差別的な発言は例え相手に教えてくれと言われても自分の口から言いたくないから」と決して教えてくれませんでした。汚い言葉は口にするのもはばかられるということでしょうか。こんなルームメイトに出会えて、私は本当に運が良いなと思ったものです。


いろいろ調べてみると、ダンのおじいちゃんのレオ・ドローチャーは、日本のプロ野球で監督になる可能性もあったようです。病気でその話はなくなったそうですが、何十年か後にご自分のお孫さんが大学の寮で日本人とルームメイトになるなんて、「縁」というものを天国で感じられていることでしょう。


現在、ジャッキー・ロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となっています。つまり、アメリカでは今はだれも背番号42をつけられません。日本のプロ野球では永久欠番ではないので、日本に来る外国の選手は喜んで42を選ぶそうです。


ジャッキー・ロビンソンのことは、彼を題材とした伝記映画『42 -世界を変えた男-』を見るとよくわかります。もちろん、ダンのおじいちゃんである監督レオ・ドローチャーも出てきます。(あまり良い描き方ではないので、少し残念ではありますが。)


最後に、ブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーが入団時にジャッキー・ロビンソンに言った言葉とそのエピソードを。


「あなたはこれまで誰もやっていなかった困難な戦いを始めなければならない。その戦いに勝つには、あなたは偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持つのだ。」


それからジャッキー・ロビンソンの右の頬を殴ったそうです。そうしたら、ジャッキー・ロビンソンは「頬はもう一つあります。ご存じですか」と答えたそうです。


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