論理のすり替えに気付き、しっかりとした議論をするために
前回の人はなぜ勉強するのか?(50)では、『鬼滅の刃』第148話でのセリフから「大きな政府」「小さな政府」について考えました。
「大きな政府」は、北欧の国に代表されるような税金は高いけれども、その代わりに医療福祉に手厚いという特徴がありました。『強い者は弱い者を助け守る』という炭治郎的発想です。
「小さな政府」の代表は、アメリカだと思います。税金はそれほど高くない代わりに、医療福祉は民間、個人の力で何とかしなさいという考え方です。税金なり、保険なり、どうせお金を払うなら自由度が高い方が良い。このような政府に頼らない、個人の力で道を切り開くという考え方は、人間の時に大切な人を守れずに鬼になってでも強さを求めていく猗窩座的発想だと思います。
この二つの考え方は、どちらが正しいという問題ではありません。
しかし、「大きな政府」は弱者に優しく、「小さな政府」は弱者に厳しいという印象を与えますから、一見すると「大きな政府」の方が「正しい」考え方というように思われがちです。
鬼を倒す主人公・炭治郎の考え方が「正しい」、鬼で口の悪い猗窩座の考え方は「正しくない」と決めつけるのは、人々を間違った方へ導く恐れがあります。
炭治郎はこう言います。『お前の言ってることは全部間違ってる お前が今そこにいることがその証明だよ』『お前もそうだよ猗窩座 記憶にはないのかもしれないけれど赤ん坊の時お前は 誰かに守られ助けられ今生きているんだ』
論理のすり替えです。赤ん坊の時の話をされちゃ、そりゃ誰もが弱者です。
今回の話は、赤ん坊ではなく、普通の人が強くなるために「自分より弱い者を助け守る」方がより強くなるのか、「弱者に足を引っ張られずに自分で道を切り開く」方がより強くなるのかの問題です。
政府が経済活動に積極的に介入する「大きな政府」の方が国にとって良いのか、政府が経済活動にあまり加担しない「小さな政府」の方が良いのかという問題と同じです。
だから、正しいとか正しくないという話しではなく、二つの考え方があるというだけです。人それぞれが自分の信じた道を進めば良いだけです。
炭治郎のように、論理をすり替え、さも正しそうなことを言う人はたくさんいます。話の一部は正しいのですが、そもそもの部分をごまかしているケースが多いので気をつけたいものです。
そういった論理のすり替えに気付き、しっかりと議論するために人は勉強するのです。