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人はなぜ勉強するのか?(56)

        

自由とは?



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そもそも自由とは何でしょうか?

 

私は高校時代、夏目漱石の『こころ』や森鴎外の『舞姫』、芥川龍之介の『羅生門』などの文豪と呼ばれる作家の小説を勉強した時に、明治維新後、日本が西洋の思想や文化を急速に取り入れてきた弊害としての個人主義について取り上げた作品であると学びました。

 

私は当時、アメリカは『スター・ウォーズ』を作る偉大な国、自由と平等の国、政治も経済もスポーツもエンターテイメントも全てがナンバーワンの国だと思っていましたから、「個人主義と利己主義は違うぞ」と憤っていました。

 

確かに、個人主義と利己主義は違いますし、文豪と呼ばれる作家も重々承知したうえで作品を書いているのでしょう。しかし、前の例に挙げた小説に出てくる人物はあまりにも利己主義的な行動をするので、少し違うのではないかと思っていました。

 

ましてや夏目漱石はイギリスへ、森鴎外はドイツへの留学経験もあり、そんな欧米を知る人間がどうしてこのような作品を書くのだと不思議に思っていました。

 

時は過ぎ、私自身もアメリカへ留学することになり、何年か過ごすうちに「なるほど」と思うようになりました。

 

行った者にしかわからないことがあるのだなと思ったものです。何も知らずに根拠もなく理想だけぶち上げて、文豪たちに噛みついていた高校時代の私は未熟者でした。

 

皆さんもこの一年の間で様々な映像で海の向こうの人々の姿を見た時に、自由とは何だろうって思いませんでしたか?

 

明らかに自由と自分勝手をはき違えているとしか思えません。

 

広辞苑によると自由とは、

 

  [後漢書(皇后紀下、安思閻皇后)]心のままであること。思う通り。自在。古くは、勝手気ままの意に用いた。

    (freedom; liberty)一般的には、責任を持って何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。

 

①の「後漢書」というのは中国の歴史書です。その歴史書には、中国・後漢の安帝の皇后である安思閻皇后の話があり、その中で「自由」という語が出てくるそうです。安思閻皇后はとても自分勝手な振る舞いを行っていたので、自由には「勝手気まま」という意味があります。

 

現代に生きる私たちは通常「自由」を論じる時は、②の意味を想定します。何でも好き勝手にして良いという「無条件的な絶対の自由」ではなく、「一定の前提条件の上」の自由です。つまり、他人の自由を侵害してまで個人の自由を追求することは認められていないのです。

 

いわゆる欧米の個人主義とは、国や社会などの集団より個人の自由や尊厳を尊重するという考え方であって、自分勝手を意味する利己主義とは全く違います。

 

個人主義と対極にあるのが全体主義です。全体主義とは、個人の自由や権利より国の利益を最優先とする考え方で、これは戦争に結びついていきます。第二次世界大戦はそうでした。

 

つまり、本当の個人主義とは、人々を国家の意のままに操られないようにするために先人たちがたどりついた尊い思想です。

 

それを自分勝手の行動をして良いとして、他人の権利を侵害する行為をするのは許されることではありません。


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