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人はなぜ勉強するのか?(54)

        

権力者に勝手な行動をさせないために



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「人はなぜ勉強するのか?」を考えていると、いろいろな意見に出会うものです。

 

今回は、あるネットの記事に対するコメントです。匿名で、そのコメントが掲載されていたアドレスも無いので、みなさんが元ネタを探ることができないので申し訳ないのですが、私自身がこれは納得できると思い、スマホのメモに取っておいたものです。

 

以下の文は、そのコメントの完全なる引用で私の言葉ではないことを改めてここに記しておきます。

 

勉強する究極的理由は大きく2つあると思う。

①豊かな人生を送るため。
それは単に就職に有利という意味合いではなく、例えば新聞や遺跡を観るときなど、日常生活で、1つの物事を単に眺めて平面的にしか捉えられない人と、事実や歴史を立体的に俯瞰できる教養がある人とでは、人生の深みに天地の差がある人生となると考えられる。

②客観的、合理的な社会秩序を実現する。

この世のなかは放っておけば、権力者、お金持ち、腕力強い人などが社会を支配してしまう。そうした無秩序な社会では、たとえ不合理で矛盾したことであっても、事実はねじ曲げられ、都合の良い論理を押し付けられてしまう。そこで、教育により合理的、客観的な思考を身につけ、不合理な相手を説得できる能力が必要となる。社会にはびこる不合理、不平等、不正を批判的に吟味し、社会に秩序をもたらし、誰もが暮らしやすい社会を目指すために学問は必要なのだと考える。

 

何度読んでも、その通りだなと感心してしまいます。①の方は次回以降にとっておいて、今回は②のお話からしましょう。

 

皆さんの中にも②を読んで思い当たることがあるのではないでしょうか。

 

発言力のある人、権力のある人、いろいろな意味で力の強い人が、自分の言い分を強引に押し通して、周りの人を自分の思い通りにしている例をいくつか思い浮かべることができるはずです。

 

そういった人は、誰も逆らわないだろうとウソで事実をねじ曲げたり、自分に都合のいい論理を他人に押しつけたりします。

 

そういう人たちに対抗するために、私たちは勉強するのです。

 

相手の論理の矛盾をつくためには、しっかり相手の話を聞き、理解し、その論理の間違いを指摘しなければなりません。

 

そして、その指摘の仕方も論理的、客観的でなければなりません。感情的になったり、自分勝手な論理で話したりすれば、相手を説得させることはできないでしょう。

 

数学や国語などの勉強はこういうことに役立ちます。その他の教科の知識ももちろん役に立つかもしれません。

 

そもそも勉強するという行為自体が、目標を設定し、その達成のために必要なことを考え、実行し、結果を評価し、反省し、また何が必要かを考えて実行することの繰り返しであるがゆえに、合理的、論理的、客観的に考える必要があるのです。

 

つまり、勉強することで合理的、論理的な考え方が身につき、その結果、より良い社会が実現することに役に立つのです。


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