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人はなぜ勉強するのか?(75)

  


人はなぜ勉強しない・・・のか?④  学ぶ者の姿勢「不憤不啓」



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(前回人はなぜ勉強するのか?(74)のつづき)


「やり方がわからない」とか「何からやるべきかわからない」という生徒は、「歩き方がわからない」とか「最初の一歩は右足か左足かわからない」と言っているのと同じです。


最初の一歩は、右足でも左足でも良いのです。まず一歩踏み出すこと。踏み出せば、次にもう片方の足が前に出てくるはずです。


それでも、前回の人はなぜ勉強するのか?(74)に挙げた教科書を読むという勉強の例で言うと、わからない言葉が出てきた時に辞書を引こうとするか、辞書の引き方がわからない時にそれを勉強しようとするかは問題です。


つまり、課題が出てきた時にその課題に立ち向かおうとするのか、面倒だからと逃げるのかは、勉強ができるようになるかどうかの分かれ道です。


そこは、人はなぜ勉強するのか?(73)で述べたように、嫌でも面倒でも無理にでも継続することで習慣化させれば、逆に課題に立ち向かわない方が落ち着かなくなると思います。


もちろん、わからない言葉が出てきたら辞書を引くとか、こういう時は国語辞典を引き、こういう時は漢和辞典を引くと教えたり、実際に辞書の引き方を教えたりするのは指導者の仕事です。


その教えを受ける側の生徒の姿勢はどうあるべきでしょうか。


最初の一歩は踏み出しました。でも次の一歩でつまずきました。原因はわかっています。その問題点を解決して、先に進もうという意欲はあります。そういう生徒であれば、ちょっと指導しただけで効果絶大です。


やる気があって、何が課題かはっきりしているからです。


生徒に「勉強をする気があるのか」と問えば、「ある」と答えます。「成績を上げたいか」と聞けば、「上げたい」と言います。


ここから「やる気」はあると判断できるでしょうか。


違いますね。実際の行動が伴って初めてやる気があると判断できるのです。


成績は上げたいが勉強はしない、合格はしたいが苦労はしたくないということでは、目標は達成できません。


論語の中にこういう一節があります。


不憤不啓、不悱不発。挙一隅、不以三隅反、則不復也。


憤(ふん)せずんば啓(けい)せず、悱(ひ)せずんば発(はっ)せず。一隅(いちぐう)を挙(あ)ぐるに、三隅(さんぐう)を以(もっ)て反(はん)せずんば、則(すなわ)ち復(ふたた)びせざるなり。


(学ぶ者本人が)理解しようとしていきりたつほどでなければ、その者の目をひらいて理解させようと教えたりしない。(学ぶ者が自分の考えを)うまく表現できずにいらだつほどでなければ、(うまく言うことができるように)教えたりしない。(四隅ある物事のうちの)一つを取りあげて示すと、(残りの)三つの隅を自分で考えるようでなければ、もう二度とは教えない。


孔子は自分の弟子が学びたくて、学びたくてどうしようもないという状態にならなければ、教えても意味がないと考えていたのでしょう。


それだけではありません。


先生が少しヒントを与えたら、弟子は他のいろいろなことまで自分で考えられるようでなければならないとも言っています。


厳しいですね。



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