勉強が将来必要になるかもしれないから
前回の人はなぜ勉強するのか?(69)では、つらいことに立ち向かっていく経験は、未来の自分のためになるというイチロー選手の引退会見でのコメントと私のアメリカでの経験から、英語を学ぶ意義を考えました。
イチロー選手の経験と私の無謀な若気の至りを同列に並べるのは大変おこがましいことです。しかし、生徒たちより長く生きている人生の先輩としては、イチロー選手も私も同じです。(ちなみにイチロー選手は、私の一つ上の先輩です。)
そして、イチロー選手のコメントと私の経験を踏まえて生徒たちに伝えたいことは、先のことを考えすぎて動けなくなるより、まず行動してほしいということです。そのためにも、しっかり勉強して基礎を固めなければなりません。
アメリカでアパートを借りるのも、中古車を手に入れるのも英語ができなければ不可能です。
特に学生の間は、将来どのような道に進むかわからないので幅広く勉強して、人間としての基礎を固めておくべきです。
私は、以前の人はなぜ勉強するのか?(2)で述べたように、学校で学ぶ勉強の内容が「役に立たない」のではなく「役に立たせようとしてない」だけではないかと信じていますが、同様に「いつ役に立つかわからない」とも思っています。
人はなぜ勉強するのか?(16)や人はなぜ勉強するのか?(17)を読んでいただければわかりますが、私は急にアメリカ行きを決めました。元々英語が得意で計画的に勉強してアメリカに行ったわけではありません。日本の大学に行くつもりで学んでいた英語が結局は役に立つことになりました。
人は将来どんな自分になっているかわからない状態で現在を過ごします。未来がわかっていれば、将来必要なことを前もって準備することができます。しかし、そんなことは誰にもできません。
必要になるかもしれないから勉強しておくか、必要ではないかもしれないから勉強しないかは、人それぞれの考え方です。その人がどういう人間かが問われますね。
必要になるかもしれないからと勉強できる人は、仮に必要なくなったとしても勉強したことが無駄になったわけではありません。
必要ではないかもしれないからと勉強しない人は、勉強をしなかった代わりに何かをしているはずです。それが人生にとって必要なことになるかもしれません。
無駄なことなんて何一つないと言うことは簡単です。しかし、「勉強する」という決断も「勉強しない」という決断もどちらも尊重すべき個人の判断です。
なんてこと言うと、「人はなぜ勉強するのか」について考えるという本来の趣旨から逸脱してしまいますね。
次回、しっかり本線に戻していきます。