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人はなぜ勉強するのか?(81)

 



  予習で疑問点を明確に、解消しなければ質問しよう 「不日如之何」



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前回の人はなぜ勉強するのか?(80)と前々回の人はなぜ勉強するのか?(79)では、数学の予習において、わかっている部分とわからない部分をはっきりさせ、疑問点(学ぶべきことと言い換えてもいいでしょう)を明確にしてから授業に臨むと理解力が増すというお話をしました。


そして、もう一人の客観的な自分に対して「わかっている部分とわからない部分をはっきりさせる」ことや、学んだ内容をさらに思考して学びを深めることは、メタ認知といって勉強する上で非常に重要な力だというお話もしました。


常に「なぜこうなるのだろう」とか「これは何を意味しているのだろう」と自分の中のもう一人の自分に問いただして思考を深めているのです。


学んだ(認知)ことをさらに深く思考する(メタ認知)ことで、一つ学んだことが二にも三にも十にもなるのでしょう。孔子が言っていることは、首尾一貫しています。


指導者として、何がわかって、何がわからないのかがわかっている生徒に教えるのは簡単です。わからないところをピンポイントで指導すればいいのです。


そのうえ、そういう生徒はその疑問点を解消しようという意欲にあふれています。乾いたスポンジが水を吸収するように、指導した内容を自分のものにしていくでしょう。


以前の人はなぜ勉強するのか?(75)人はなぜ勉強するのか?(76)で紹介した「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず、悱(ひ)せずんば発(はっ)せず」は、学ぶ者のあるべき姿勢を表していますが、次に紹介する『論語』の一節もそうです。


不曰如之何、如之何者、吾末如之何也已矣。


之(これ)を如何(いかん)せん、之(これ)を如何(いかん)せんと曰(い)わざる者は、吾(われ)、之(こ)れを如何(いかん)ともすること末(な)きのみ。


これをどうしたらいいだろう、どうしたらいいだろうと自分から積極的に言わない者には、わたしはどうすることもできない。


予習によって疑問点、課題が明確になりました。授業でその疑問点が解消されなければ、先生に質問するべきでしょう。


積極的に質問するのは大事なことですが、質問の内容にはくれぐれも注意しましょう。


授業で先生が指導した内容を質問してしまったら、「授業で言ったんだけどな」となってしまいます。


「先生が教えてくれた方法と違って、自分はこう考えたのですが、それでも良いですか」という類の質問は、指導者を喜ばせます。学びたいというやる気を感じます。


このような質問のできる生徒には、指導者側もより深い内容を教えても大丈夫だと判断します。もちろん、生徒本人に自ら考えさせる時間は十分に与えます。自分で気づいた方が100倍楽しいのでね。



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