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人はなぜ勉強するのか?(99)

      究極の「言われなくてもできる」生徒になるためには? 前 へ                       目次 へ                前回の 人はなぜ勉強するのか?(98) では、「言われなくてもできる」生徒になってほしいので、私は環境が許せば必要最低限の宿題しか出さないようにしているというお話をしました。 そして、最後に『究極の「言われなくてもできる」生徒を創り出すためにどうしたらいいのか、次回は、そのことについて考えていこうと思います』と書いたのですが、これは本当に難しいことです。 これまで20年以上に渡って何人もの「言われなくてもできる」生徒を見てきましたが、一つ言えることは、私がそのように仕向けたわけでも、創り出したわけでもないということです。出会った当初は「言われないとできない」生徒で、途中から「言われなくてもできる」生徒に変わった生徒もいますが、私が特別なことをしたわけではありません。 ですから、『これをすれば誰でも「言われなくてもできる」生徒になります!』みたいなことを私は一切言えません。どうすればそのような生徒になるのかは、当然ながらその生徒自身が大きく影響しています。 もちろん、学校や人間関係、家庭環境などの社会的要因も少なからず影響していると思いますが、最終的には生徒本人次第であることは疑いようのない事実でしょう。 だからこそ、私は「人はなぜ勉強するのか?」というテーマで(1)から(99)まで考えてきました。これだけあれば一つくらい納得できる理由があって、自ら進んで勉強してみようかなというきっかけにしてもらいたいというのが私の望みです。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(98) の最後に『究極の「言われなくてもできる」生徒を創り出すためにどうしたらいいのか』と書きましたが、その答えはここにあります。 ここまで「人はなぜ勉強するのか?」というテーマで書いてきましたが、文字数を数えたら約11万字でした。本が一冊できるほどなので、読んでくださいと言うのは勉強に部活に忙しい生徒にとって少しハードルが高いように思います。 そこで、 「人はなぜ勉強するのか?」内容一覧 を作りました。興味のあるところから読んでもらえればと思います。 これをきっかけに生徒たちがみな「言われなくてもできる」ようになってくれたら、これ以上の喜びはありません。 前

人はなぜ勉強するのか?(98)

     必要最低限の宿題が自ら考える生徒をつくる 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(97) では、学生が取り組む宿題というものも「メタ認知」の観点から考え直してみました。 理想としては、自分で何を勉強すべきか考えて取り組むのが良いのでしょうけれども、現実的にはそこまで成熟していない生徒には、ある程度先生主導で宿題を出さなければならないということもあります。 つまり、生徒一人一人の現状に合わせて宿題を出したり、自分で考えさせたりしていくべきだと思いますが、学校や塾などの集団授業では限界がありそうです。 私が函館に来て驚いたことは、高校が補習やら講習やらいろいろ行ってくれることでした。 私の高校では一度もありませんでした。例え講習などがあったとしても出席しなかったでしょう。高校の先生は、口癖のように「君たちはどうせ自分で勉強するから」と言っていたように記憶しています。宿題もほとんど出された記憶はありません。 学校がいろいろしてくれることが良いことなのか、その生徒のためになっているのか考える必要があります。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(97) で最後に述べたように、「言われたことはできる」から「言われなくてもできる」に変わらなければ、そこから先の「伸びしろ」にいつか限界が訪れます。 どうも周囲からさまざまな親切な行為を受けた結果、自ら考えない「受け身」の生徒が増えてしまったのかもしれません。 学校や塾の授業でも補習でも講習でも何でもそうですが、授業を受けるだけで成績が上がるわけではありません。結局のところ、自ら積極的に予習なり復習をして、ノートをまとめたり、問題を解いたり、教科書を読んで自分のものにしていく必要があるのです。 私は環境が許せば必要最低限の宿題しか出さないようにしています。 「言われなくてもできる」生徒になってほしいからです。 必要最低限の宿題を終えてから、自ら考えて必要なことを必要なだけ勉強してもらいたいと考えています。 「言われなくてもできる」生徒は、自分の勉強時間を確保したいと考えています。それを宿題で邪魔しては、「言われなければできない」生徒を創り出してしまいます。 先生が宿題さえ出さなければ、生徒は「言われなくてもできる」ようになるわけではないで

人はなぜ勉強するのか?(97)

      「言われたことはできる」は「言われなければできない」と同じ 前 へ                       目次 へ               次へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(96) では、問題を解く時に正解まで「寄り道」せず最短距離で行かなくても構わないが、正解へたどり着く道の入り口にすら到着していない、つまり「寄り道」どころか完全に「迷走中」という場合、その理由を探るべきだというお話をしました。 問題を解いているときに何をすべきかわからないとか全く関係ないことをして「迷走中」の生徒は、問題を解くために何が必要か、そのために何が必要かと筋道立てて考えることができていないので、もっと「メタ認知」を鍛えるべきだというお話もしました。 自分の中の客観的な「自分」が、自分を冷静に分析することこそ「メタ認知」だとするならば、学生が取り組む宿題というものも「メタ認知」の観点から考え直す必要があります。 それというのも、自分を疑い、世界を疑い、考えて、考えて、考え抜いた結果、何をどれくらい勉強するかも自分で考えるべきだからです。 塾や家庭教師の出す宿題の分量には、いろいろな意見があります。概ね、中学生を対象にしている塾では大量の宿題が出ているように思います。 これは、果たして良いことでしょうか。 保護者の中には、先生に宿題をたくさん出して欲しいと要望する人も多いと思われます。 誤解を恐れずに言うと、これは保護者や塾の自己満足になりかねません。 宿題を多くやりさえすれば成績が上がるとか、宿題がたくさんあればその分だけ勉強する時間がかかるのでゲームやスマホで遊ばずに済むという考えです。 前者は、宿題が多すぎてその生徒にとって本当に必要な勉強をする時間が取れない恐れがあります。後者は、宿題が終われば、他に何もせずゲームやスマホに時間を取られる可能性があります。 出された宿題をきちんとできるというのは、それ自体は大事なことです。 ただ、ここで考えなければならないことは、「言われたことはできる」というのは裏を返せば「言われなければできない」ということと同じだということです。 大量の宿題を出されて、それをこなしている生徒は、逆に宿題を出されなくなったら自分で考えて勉強することができなくなるかもしれません。宿題さえ終われば何をしても良いだろうと考えて遊んでしまう生徒に

人はなぜ勉強するのか?(96)

    メタ認知の鍛え方④  悩み、迷うことがメタ認知を鍛える 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(95) では、いつもの問題より少し変えられるだけで急に解けなくなるような不測の事態に対応できるようになるには、一見無駄なように思えることも経験しておくと良いというお話をしました。 日頃から「メタ認知」を鍛えて、生徒に合理的な判断を求めるなど、合理性を追求しているのに、無駄に見えることもどんどんすべきだというのは矛盾しているように聞こえます。 理想と現実は違うと言えば聞こえはいいのですが、まだ発展途上の学生が合理的に最短距離を通って、バンバン問題解いていくというのは明らかに無理があるのです。 私が言う「合理的な判断」というのは、ある事柄に思考がたどり着く過程での理由付けが理にかなっている(合理的である)ことを重視するという意味合いで、決して正解に寄り道せず最短距離を通ってたどり着くことを意味していません。 むしろ、私の生徒(高校生以上)ならば一度は聞いたことのあるセリフで、「この解法は天才のやり方」というものがあります。「天才のやり方」が正解への最短距離ならば、誰でもできる方法ではありません。私は自分が残念ながら天才ではないということを知っていますから、誰もがこの「天才のやり方」ができるわけではないということを知っています。 理想と現実というのはこういう事で、理想としては「天才のやり方」でできればいいのでしょうし、そこを追求すべきとも思いますが、現実はそうはいきません。だから、そういう時私は、「普通はこっちしか思いつかないでしょ」という言い方をします。それが、現実問題としてテスト中に天才でなくても無理なく思いつく解法だからです。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(95) で、「指導者は正解までの最短距離を知っているので、無駄な寄り道をしている生徒にやきもきするケースもあるでしょうが、将来的に役立つ寄り道なら目をつぶるべきでしょう」と述べましたが、このように「寄り道」の種類も指導者は判断しなければなりません。 生徒が正解まで最短距離で行かなくても構わないのですが、正解へたどり着く道の入り口にすら到着していないならば、その理由を探るべきです。つまり、「寄り道」どころか完全に「迷走中

人はなぜ勉強するのか?(95)

    メタ認知の鍛え方 ③  ムダにみえることも経験してみよう 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(94) では、生徒たちの「メタ認知」を鍛えることが成績アップのカギだと考え、「メタ認知」を鍛える取り組みを紹介しました。 以前と全く同じ問題を解くのであれば、答えや解き方を覚えれば良いだけなので、これは「認知(知識)」の問題です。 全く同じ問題でなければ、これは「メタ認知」が必要になってきます。 例えば、ある場所からある場所への移動を考えるとわかりやすいかもしれません。 いつも同じ場所から同じ目的地に移動するなら、一度その道順を覚えれば何度でも間違えずに目的地にたどり着くでしょう。これが、道路工事やイベントなどでいつも通っている道が通行止めになっていたらどうでしょう。別の道を通らなければならない時に急に困ってしまうのです。 これは、いつも同じ問題を解くなら難なく解けるけれども、いつもの問題より少し変えられるだけで急に解けなくなることの例えです。 このような不測の事態に対応できるようになるには、一見無駄なように思えることも経験しておくと良いと思います。 例えば、A地点からC地点まで行くとします。仮にA地点からC地点までの道に通行止めがあって直接行くことができなきなったとしましょう。 普段から町をブラブラあてもなく散歩していて、B地点からC地点までの行き方を発見した人がいるとします。その人は、A地点からC地点まで通行止めで直接行けなくなったとしても、何とかB地点まで行くことができれば、そこからC地点までたどり着くことができるのです。 A地点からC地点まで行く人にとって無駄のように見える、A地点からB地点までの道順でも役に立つことはあるのです。 時間的制約もありますから、なかなかムダな寄り道はしない人も多いと思います。そういう人は、「この道を通るとこの道に出るんだ」という経験が少ないので、いつも同じ場所から同じ目的地に移動するなら問題ないのですが、通行止めのような不測の事態に対応できなくなってしまいます。 勉強面で言っても、無駄に見えることもどんどんすべきだと思います。指導者は正解までの最短距離を知っているので、無駄な寄り道をしている生徒にやきもきするケースもあるでしょうが、将

人はなぜ勉強するのか?(94)

    メタ認知の鍛え方②  どのように問題を解いたかを尋ねる 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(93) では、『論語』の「吾(われ)日に吾身(わがみ)を三省(さんせい)す」を引用して、自分の行動や考えを省みるべきだというお話をしました。 というのも、「反省する」ということと「自分を疑う」ということは同じで、それは「メタ認知」を鍛えることにつながるからです。 最近私は、生徒たちの「メタ認知」を鍛えることが成績アップのカギだと考え、今まで以上にそのことに重点的に取り組むようにしています。(生徒たちは気づいていないでしょうけれども、いつの間にか「メタ認知」が鍛えられていればラッキーでしょう。) 具体的には、授業の中で生徒たちがどのように問題を解いたのかを聞きます。生徒の中の「内なる『自分』」との会話を聞くと言い換えても構いません。 ある問題に正解する生徒は正しい知識、考え方で正解にたどり着いている者もいれば、勘違いしていて間違った知識や考え方を使っていて偶然正解している者もいます。 不正解の場合は、知識が間違っている生徒もいれば、考え方が間違っている生徒もいます。 問題を正解したとき、私はなぜそうなったかを生徒に聞いて、正しい思考経路や知識で正解にたどり着いているか尋ねています。 逆に問題が不正解だったときも、私はなぜその答えにたどり着いたかを聞いて、なぜ間違えたのか理由を探るようにしています。 生徒にとっては、問題に正解しようが、不正解であろうが、どうしてその解答になったのかを私に質問されるわけです。面倒だと思う生徒もいるかもしれません。「正解なんだから良いだろう」とか「答えを間違っているなら正しい答えを教えろ」と思っているかもしれません。 一番大事なことは、今この問題を正解することではなく、次に同様の問題が出された時にできるかどうかなのです。 ポイントは、『同様の』というところです。全く同じ問題であれば、答えや解き方を覚えれば済みます。「知っている」か「知らない」かだけならば、これは「認知(知識)」の問題です。 全く同じ問題ではなく、複合問題だったり、学んだことを使って全く新しい問題に取り組む必要があったりすれば、これは「メタ認知」が必要になってきます。 その時に正しい

人はなぜ勉強するのか?(93)

    「自分を疑う」ことは「反省する」こと  「吾日三省吾身」 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(92) では、ペストをきっかけに中世ヨーロッパが変革を迎えたり、ニュートンの偉大な発見につながったりしたと言われていますが、それ以前に少しずつ変化は起きていて、ペストが一押ししたことで、その変化が加速したと考えるべきだというお話をしました。 また、現代でも新型コロナウイルスがさまざまな問題を顕在化させています。このように明らかになった問題を大いに議論し、解決できたらコロナも悪いことばかりではなかったと後世の歴史家も評価するのではないかというお話もしました。 新しい問題を解決したり、深く思考したりする時に「メタ認知」は必要なものですが、その「メタ認知」を鍛える方法として、私は「自分を疑え」と言ってきました。『論語』の中にも同じような教えがあるので紹介します。 吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。与朋友交而不信乎。伝不習乎 吾(われ)日に吾身(わがみ)を三省(さんせい)す。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。朋友(ほうゆう)と交はりて信ならざるか。習はざるを伝ふるか わたしは毎日何度も自分自身を反省している。人のために物事を考えるとき、真心を尽くさなかったのではないか。友人と交際するとき、誠実でなかったのではないか。まだ習得していないことを教え伝えたのではないか。 最初の部分の「吾日三省吾身」は、「吾(われ)日に三(み)たび吾(わ)が身を省(かえり)みる」と書き下すこともあるようです。その場合、「私は一日に三回自分自身を反省している」という現代語訳になります。 「三」という漢字には、「三回」のように「みたび」という意味もありますが、「再三」のように「たびたび、何度も」という意味もあります。 私自身の「一日に三回と言わず何度も反省すべきだ」という思いから、「吾(われ)日に吾身(わがみ)を三省(さんせい)す」という書き下し文で、「わたしは毎日何度も自分自身を反省している」という現代語訳にしました。 私は、「反省する」ということと「自分を疑う」ということは同じだと思っています。 「自分を疑う」ということは、「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」と自分の行動や考えを省みることだから