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人はなぜ勉強するのか?(99)

      究極の「言われなくてもできる」生徒になるためには? 前 へ                       目次 へ                前回の 人はなぜ勉強するのか?(98) では、「言われなくてもできる」生徒になってほしいので、私は環境が許せば必要最低限の宿題しか出さないようにしているというお話をしました。 そして、最後に『究極の「言われなくてもできる」生徒を創り出すためにどうしたらいいのか、次回は、そのことについて考えていこうと思います』と書いたのですが、これは本当に難しいことです。 これまで20年以上に渡って何人もの「言われなくてもできる」生徒を見てきましたが、一つ言えることは、私がそのように仕向けたわけでも、創り出したわけでもないということです。出会った当初は「言われないとできない」生徒で、途中から「言われなくてもできる」生徒に変わった生徒もいますが、私が特別なことをしたわけではありません。 ですから、『これをすれば誰でも「言われなくてもできる」生徒になります!』みたいなことを私は一切言えません。どうすればそのような生徒になるのかは、当然ながらその生徒自身が大きく影響しています。 もちろん、学校や人間関係、家庭環境などの社会的要因も少なからず影響していると思いますが、最終的には生徒本人次第であることは疑いようのない事実でしょう。 だからこそ、私は「人はなぜ勉強するのか?」というテーマで(1)から(99)まで考えてきました。これだけあれば一つくらい納得できる理由があって、自ら進んで勉強してみようかなというきっかけにしてもらいたいというのが私の望みです。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(98) の最後に『究極の「言われなくてもできる」生徒を創り出すためにどうしたらいいのか』と書きましたが、その答えはここにあります。 ここまで「人はなぜ勉強するのか?」というテーマで書いてきましたが、文字数を数えたら約11万字でした。本が一冊できるほどなので、読んでくださいと言うのは勉強に部活に忙しい生徒にとって少しハードルが高いように思います。 そこで、 「人はなぜ勉強するのか?」内容一覧 を作りました。興味のあるところから読んでもらえればと思います。 これをきっかけに生徒たちがみな「言われなくてもできる」ようになってくれたら、これ以上の喜びはありません。 前

人はなぜ勉強するのか?(98)

     必要最低限の宿題が自ら考える生徒をつくる 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(97) では、学生が取り組む宿題というものも「メタ認知」の観点から考え直してみました。 理想としては、自分で何を勉強すべきか考えて取り組むのが良いのでしょうけれども、現実的にはそこまで成熟していない生徒には、ある程度先生主導で宿題を出さなければならないということもあります。 つまり、生徒一人一人の現状に合わせて宿題を出したり、自分で考えさせたりしていくべきだと思いますが、学校や塾などの集団授業では限界がありそうです。 私が函館に来て驚いたことは、高校が補習やら講習やらいろいろ行ってくれることでした。 私の高校では一度もありませんでした。例え講習などがあったとしても出席しなかったでしょう。高校の先生は、口癖のように「君たちはどうせ自分で勉強するから」と言っていたように記憶しています。宿題もほとんど出された記憶はありません。 学校がいろいろしてくれることが良いことなのか、その生徒のためになっているのか考える必要があります。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(97) で最後に述べたように、「言われたことはできる」から「言われなくてもできる」に変わらなければ、そこから先の「伸びしろ」にいつか限界が訪れます。 どうも周囲からさまざまな親切な行為を受けた結果、自ら考えない「受け身」の生徒が増えてしまったのかもしれません。 学校や塾の授業でも補習でも講習でも何でもそうですが、授業を受けるだけで成績が上がるわけではありません。結局のところ、自ら積極的に予習なり復習をして、ノートをまとめたり、問題を解いたり、教科書を読んで自分のものにしていく必要があるのです。 私は環境が許せば必要最低限の宿題しか出さないようにしています。 「言われなくてもできる」生徒になってほしいからです。 必要最低限の宿題を終えてから、自ら考えて必要なことを必要なだけ勉強してもらいたいと考えています。 「言われなくてもできる」生徒は、自分の勉強時間を確保したいと考えています。それを宿題で邪魔しては、「言われなければできない」生徒を創り出してしまいます。 先生が宿題さえ出さなければ、生徒は「言われなくてもできる」ようになるわけではないで

人はなぜ勉強するのか?(97)

      「言われたことはできる」は「言われなければできない」と同じ 前 へ                       目次 へ               次へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(96) では、問題を解く時に正解まで「寄り道」せず最短距離で行かなくても構わないが、正解へたどり着く道の入り口にすら到着していない、つまり「寄り道」どころか完全に「迷走中」という場合、その理由を探るべきだというお話をしました。 問題を解いているときに何をすべきかわからないとか全く関係ないことをして「迷走中」の生徒は、問題を解くために何が必要か、そのために何が必要かと筋道立てて考えることができていないので、もっと「メタ認知」を鍛えるべきだというお話もしました。 自分の中の客観的な「自分」が、自分を冷静に分析することこそ「メタ認知」だとするならば、学生が取り組む宿題というものも「メタ認知」の観点から考え直す必要があります。 それというのも、自分を疑い、世界を疑い、考えて、考えて、考え抜いた結果、何をどれくらい勉強するかも自分で考えるべきだからです。 塾や家庭教師の出す宿題の分量には、いろいろな意見があります。概ね、中学生を対象にしている塾では大量の宿題が出ているように思います。 これは、果たして良いことでしょうか。 保護者の中には、先生に宿題をたくさん出して欲しいと要望する人も多いと思われます。 誤解を恐れずに言うと、これは保護者や塾の自己満足になりかねません。 宿題を多くやりさえすれば成績が上がるとか、宿題がたくさんあればその分だけ勉強する時間がかかるのでゲームやスマホで遊ばずに済むという考えです。 前者は、宿題が多すぎてその生徒にとって本当に必要な勉強をする時間が取れない恐れがあります。後者は、宿題が終われば、他に何もせずゲームやスマホに時間を取られる可能性があります。 出された宿題をきちんとできるというのは、それ自体は大事なことです。 ただ、ここで考えなければならないことは、「言われたことはできる」というのは裏を返せば「言われなければできない」ということと同じだということです。 大量の宿題を出されて、それをこなしている生徒は、逆に宿題を出されなくなったら自分で考えて勉強することができなくなるかもしれません。宿題さえ終われば何をしても良いだろうと考えて遊んでしまう生徒に

人はなぜ勉強するのか?(96)

    メタ認知の鍛え方④  悩み、迷うことがメタ認知を鍛える 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(95) では、いつもの問題より少し変えられるだけで急に解けなくなるような不測の事態に対応できるようになるには、一見無駄なように思えることも経験しておくと良いというお話をしました。 日頃から「メタ認知」を鍛えて、生徒に合理的な判断を求めるなど、合理性を追求しているのに、無駄に見えることもどんどんすべきだというのは矛盾しているように聞こえます。 理想と現実は違うと言えば聞こえはいいのですが、まだ発展途上の学生が合理的に最短距離を通って、バンバン問題解いていくというのは明らかに無理があるのです。 私が言う「合理的な判断」というのは、ある事柄に思考がたどり着く過程での理由付けが理にかなっている(合理的である)ことを重視するという意味合いで、決して正解に寄り道せず最短距離を通ってたどり着くことを意味していません。 むしろ、私の生徒(高校生以上)ならば一度は聞いたことのあるセリフで、「この解法は天才のやり方」というものがあります。「天才のやり方」が正解への最短距離ならば、誰でもできる方法ではありません。私は自分が残念ながら天才ではないということを知っていますから、誰もがこの「天才のやり方」ができるわけではないということを知っています。 理想と現実というのはこういう事で、理想としては「天才のやり方」でできればいいのでしょうし、そこを追求すべきとも思いますが、現実はそうはいきません。だから、そういう時私は、「普通はこっちしか思いつかないでしょ」という言い方をします。それが、現実問題としてテスト中に天才でなくても無理なく思いつく解法だからです。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(95) で、「指導者は正解までの最短距離を知っているので、無駄な寄り道をしている生徒にやきもきするケースもあるでしょうが、将来的に役立つ寄り道なら目をつぶるべきでしょう」と述べましたが、このように「寄り道」の種類も指導者は判断しなければなりません。 生徒が正解まで最短距離で行かなくても構わないのですが、正解へたどり着く道の入り口にすら到着していないならば、その理由を探るべきです。つまり、「寄り道」どころか完全に「迷走中

人はなぜ勉強するのか?(95)

    メタ認知の鍛え方 ③  ムダにみえることも経験してみよう 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(94) では、生徒たちの「メタ認知」を鍛えることが成績アップのカギだと考え、「メタ認知」を鍛える取り組みを紹介しました。 以前と全く同じ問題を解くのであれば、答えや解き方を覚えれば良いだけなので、これは「認知(知識)」の問題です。 全く同じ問題でなければ、これは「メタ認知」が必要になってきます。 例えば、ある場所からある場所への移動を考えるとわかりやすいかもしれません。 いつも同じ場所から同じ目的地に移動するなら、一度その道順を覚えれば何度でも間違えずに目的地にたどり着くでしょう。これが、道路工事やイベントなどでいつも通っている道が通行止めになっていたらどうでしょう。別の道を通らなければならない時に急に困ってしまうのです。 これは、いつも同じ問題を解くなら難なく解けるけれども、いつもの問題より少し変えられるだけで急に解けなくなることの例えです。 このような不測の事態に対応できるようになるには、一見無駄なように思えることも経験しておくと良いと思います。 例えば、A地点からC地点まで行くとします。仮にA地点からC地点までの道に通行止めがあって直接行くことができなきなったとしましょう。 普段から町をブラブラあてもなく散歩していて、B地点からC地点までの行き方を発見した人がいるとします。その人は、A地点からC地点まで通行止めで直接行けなくなったとしても、何とかB地点まで行くことができれば、そこからC地点までたどり着くことができるのです。 A地点からC地点まで行く人にとって無駄のように見える、A地点からB地点までの道順でも役に立つことはあるのです。 時間的制約もありますから、なかなかムダな寄り道はしない人も多いと思います。そういう人は、「この道を通るとこの道に出るんだ」という経験が少ないので、いつも同じ場所から同じ目的地に移動するなら問題ないのですが、通行止めのような不測の事態に対応できなくなってしまいます。 勉強面で言っても、無駄に見えることもどんどんすべきだと思います。指導者は正解までの最短距離を知っているので、無駄な寄り道をしている生徒にやきもきするケースもあるでしょうが、将

人はなぜ勉強するのか?(94)

    メタ認知の鍛え方②  どのように問題を解いたかを尋ねる 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(93) では、『論語』の「吾(われ)日に吾身(わがみ)を三省(さんせい)す」を引用して、自分の行動や考えを省みるべきだというお話をしました。 というのも、「反省する」ということと「自分を疑う」ということは同じで、それは「メタ認知」を鍛えることにつながるからです。 最近私は、生徒たちの「メタ認知」を鍛えることが成績アップのカギだと考え、今まで以上にそのことに重点的に取り組むようにしています。(生徒たちは気づいていないでしょうけれども、いつの間にか「メタ認知」が鍛えられていればラッキーでしょう。) 具体的には、授業の中で生徒たちがどのように問題を解いたのかを聞きます。生徒の中の「内なる『自分』」との会話を聞くと言い換えても構いません。 ある問題に正解する生徒は正しい知識、考え方で正解にたどり着いている者もいれば、勘違いしていて間違った知識や考え方を使っていて偶然正解している者もいます。 不正解の場合は、知識が間違っている生徒もいれば、考え方が間違っている生徒もいます。 問題を正解したとき、私はなぜそうなったかを生徒に聞いて、正しい思考経路や知識で正解にたどり着いているか尋ねています。 逆に問題が不正解だったときも、私はなぜその答えにたどり着いたかを聞いて、なぜ間違えたのか理由を探るようにしています。 生徒にとっては、問題に正解しようが、不正解であろうが、どうしてその解答になったのかを私に質問されるわけです。面倒だと思う生徒もいるかもしれません。「正解なんだから良いだろう」とか「答えを間違っているなら正しい答えを教えろ」と思っているかもしれません。 一番大事なことは、今この問題を正解することではなく、次に同様の問題が出された時にできるかどうかなのです。 ポイントは、『同様の』というところです。全く同じ問題であれば、答えや解き方を覚えれば済みます。「知っている」か「知らない」かだけならば、これは「認知(知識)」の問題です。 全く同じ問題ではなく、複合問題だったり、学んだことを使って全く新しい問題に取り組む必要があったりすれば、これは「メタ認知」が必要になってきます。 その時に正しい

人はなぜ勉強するのか?(93)

    「自分を疑う」ことは「反省する」こと  「吾日三省吾身」 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(92) では、ペストをきっかけに中世ヨーロッパが変革を迎えたり、ニュートンの偉大な発見につながったりしたと言われていますが、それ以前に少しずつ変化は起きていて、ペストが一押ししたことで、その変化が加速したと考えるべきだというお話をしました。 また、現代でも新型コロナウイルスがさまざまな問題を顕在化させています。このように明らかになった問題を大いに議論し、解決できたらコロナも悪いことばかりではなかったと後世の歴史家も評価するのではないかというお話もしました。 新しい問題を解決したり、深く思考したりする時に「メタ認知」は必要なものですが、その「メタ認知」を鍛える方法として、私は「自分を疑え」と言ってきました。『論語』の中にも同じような教えがあるので紹介します。 吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。与朋友交而不信乎。伝不習乎 吾(われ)日に吾身(わがみ)を三省(さんせい)す。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。朋友(ほうゆう)と交はりて信ならざるか。習はざるを伝ふるか わたしは毎日何度も自分自身を反省している。人のために物事を考えるとき、真心を尽くさなかったのではないか。友人と交際するとき、誠実でなかったのではないか。まだ習得していないことを教え伝えたのではないか。 最初の部分の「吾日三省吾身」は、「吾(われ)日に三(み)たび吾(わ)が身を省(かえり)みる」と書き下すこともあるようです。その場合、「私は一日に三回自分自身を反省している」という現代語訳になります。 「三」という漢字には、「三回」のように「みたび」という意味もありますが、「再三」のように「たびたび、何度も」という意味もあります。 私自身の「一日に三回と言わず何度も反省すべきだ」という思いから、「吾(われ)日に吾身(わがみ)を三省(さんせい)す」という書き下し文で、「わたしは毎日何度も自分自身を反省している」という現代語訳にしました。 私は、「反省する」ということと「自分を疑う」ということは同じだと思っています。 「自分を疑う」ということは、「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」と自分の行動や考えを省みることだから

人はなぜ勉強するのか?(92)

    感染症の流行は変革のチャンス  顕在化した問題を解決できるか 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の人 はなぜ勉強するのか?(91) では、14世紀のペストが中世ヨーロッパを変革させ、近代ヨーロッパへのきっかけになったというお話をしました。 また、17世紀半ばにロンドンで大流行したペストのせいで、アイザック・ニュートンは、通っていた大学が閉鎖され、その大学の閉鎖期間中に微分・積分や万有引力などの偉大な発見の着想を得たというお話もしました。 もちろん、ペストによる大学の閉鎖がなくても、ニュートンはこれらの偉大な発見をした可能性はあります。むしろ、実際より時間がかかったかもしれませんが、きっと発見に成功したでしょう。 なぜならば、ニュートンは何もないところからペストによる大学の閉鎖期間中に突然偉大な発見をしたわけではないからです。それ以前からずっと考えて、研究していたことをペストによる大学の閉鎖期間をきっかけに、より長い時間を研究に使えるようになった結果、それまでの努力が実を結んだのです。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(91) で、どんな困難な世の中でも、希望の光はあるというお話をしましたが、何の努力もせずその光を見出すことはできないはずです。困難な問題に向き合い、その解決のために今までの知識や経験を活用して考えるのです。「メタ認知」の出番です。 全く新しい問題の解決策ですから、「答え」が載っている教科書はありません。つまり、知識(「認知」)だけでは対抗できないのです。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(91) で述べた中世ヨーロッパの変革も、何の前触れもなくペストだけをきっかけになされたわけではないのです。確かにペストは、変革を加速させたことは事実でしょう。むしろペストは、それまでにあったさまざまな問題を顕在化させ、変革を加速させたという方が正しいかもしれません。 新型コロナウイルスもペストと同様、元々あった問題を顕在化させています。人種問題、経済格差問題、世代間ギャップの問題、ネットによる誹謗中傷など、これらの問題はコロナが生み出した問題ではありません。 それまで確かに存在していた問題が、コロナによって浮き彫りにされ、今では誰もが気づくレベルで明らかになっただけです。 歴史を学ぶと感染症の大

人はなぜ勉強するのか?(91)

    歴史を学ぶ意義  ペストの大流行 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(90) では、「認知」あっての「メタ認知」なので、わからないことはググればいいという考え方は非常に安易だというお話をしました。また、歴史は特に「ネットで調べればわかることをわざわざ暗記させる」教科と生徒に思われる傾向が強いというお話もしました。しかし、コロナ禍に苦しむ現代では、かつてのペストやスペイン風邪のような感染症の歴史を学んで現在の困難な問題の解決に生かそうとしています。 14世紀から500年近くの間ヨーロッパを中心に繰り返し流行したペストは、最近さまざまなメディアで取り上げられています。特に14世紀のペストは、当時のヨーロッパの人口の三分の一に当たる3000万人、全世界で2億人が亡くなるほどだったそうです。 一般的に、14世紀のペストは中世ヨーロッパを変革させたと言われています。多くの人が亡くなり、労働人口が減ると当然、その少なくなった働き手を求めて雇い主は賃金を上げます。需要が変わらず、供給が少なければ価格が上がる原理です。レア(希少)なものは、高値で取引されると言ったほうがわかりやすいかもしれません。 賃金が上昇し、労働者の地位が相対的に向上して、農奴制に基づく荘園制が崩れていきました。また、ペストの流行を抑えられなかった教会の権威が失墜し、これで封建的身分制度は崩壊していくのです。多くの人々にとって当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなっていった時代でした。 コロナ禍の中にいる私たちも漠然と同じような感覚を持っているのではないでしょうか。 その後のヨーロッパは、ルネサンスを経て、近代ヨーロッパに変貌を遂げていきます。 また、17世紀半ばにロンドンで大流行したペストのせいで、かの有名なアイザック・ニュートンは、通っていた大学が閉鎖され、故郷に戻ることを余儀なくされました。その大学の閉鎖期間中に微分・積分や万有引力などの偉大な発見の着想を得たというのは有名な話です。 歴史を学ぶと感染症の大流行でさえも、悪いことばかりではないと知ることができます。 「GAFA」と呼ばれるアメリカのIT大手4社(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)の2020年10~12月期決算が、いずれ

人はなぜ勉強するのか?(90)

    わからないことはググれば良い? 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(89) では、知識を増やすことで深い思考、合理的な判断を下すことができるようになるというお話をしました。 ですから、「何でもネットで簡単に調べられるから、知識は無くてもいい」と言って勉強せずにいると、知識が乏しく、浅い思考しかできない幼稚な判断や行動しかできないままになってしまうというお話もしました。 以前の 人はなぜ勉強するのか?(79) で「メタ認知」について紹介しました。 メタ認知とは『広辞苑』によると「自分で自分の心の働きを監視し、制御すること」とあります。 英語で、metaというのは単語の前につく接頭辞で、「より高度な」とか「より超越した」という意味を持っています。  メタ認知とは「より高度な認知」ということなので、自分の認知(知識や考え)をさらに認知するということです。つまり、自分のことを冷静に見つめる自分がいて、その客観的な自分が自分を分析するようなイメージです。 このメタ認知は、勉強する上で非常に重要なことだと思います。というのも、もう一人の客観的な自分に対して自問自答することが勉強する過程で重要だからです。 「メタ認知」は、「より高度な認知」であると聞くと、「認知」は「メタ認知」より劣っているものと思われがちです。そこから、「認知」(知識)があまり重要ではないとか、わからないことはネットで調べれば良いという考え方になってしまうのです。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(89) でお話ししたように、知識がなければ浅い思考しかできないのです。知識があるからこそ考えられることも増えると言い換えてもいいと思います。 そういう意味では、「認知」あっての「メタ認知」なので、わからないことはググればいいという考え方は非常に安易です。 例えば、歴史は特に生徒の間で勉強する必要ないとか、必要なときにネットで調べればいいと言われることが多い教科です。しかし、その「必要なとき」がいつなのかという判断は、結局知識があるからこそできる判断です。知識がなければ使おうと思うタイミングがないので、ネットで調べようという機会もないのです。 歴史の知識があると、それを踏まえて未来を考えることができます。新型コロナウイ

人はなぜ勉強するのか?(89)

    知識がないと浅い思考しかできない 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(88) では、「メタ認知」を鍛える方法として、「自分を疑え」というお話をしました。自分を疑うことで、自分の中の客観的な『自分』との『会話』が促進され、考える習慣がついてきます。 また、「世界を疑え」というお話もしました。世の中で正しいとされていることにさえも疑いの目を向けることで、幅広い知識や誰もが納得する論理、合理的な判断を身につけることができます。 幅広く、たくさんの知識を身につけると、その知識と知識を合わせてさらに合理的な判断ができるようになります。 最近、何でもネットで簡単に調べられるから、知識は無くてもいいという話をよく聞きます。今までの私の話を理解していれば、その考え方が全く的外れなことだとわかると思います。 知識が乏しいということは、それに基づいて思考したり、判断したりする材料が乏しいということに他なりません。つまり浅い思考しかできなくなるので、説得力に欠けていて周囲の人間を納得させることはできないのです。 知識が乏しいと、よく一般的に言う「薄っぺらな人間」になってしまいます。知識が乏しいと自分の中の客観的な『自分』が「薄っぺら」なので、どれほど自分の中の客観的な『自分』との『会話』をしても、「薄っぺら」なままで成長しません。それどころか、間違った判断を下したり、合理的とは程遠い判断をしたりするかもしれません。 一歳児や二歳児は、当然大人に比べれば知識が乏しいです。彼ら、もしくは彼女たちが合理的な判断ができずに周囲の大人には理解できないような行動をとってしまうのもまた当然のことです。 知識が乏しいと、幼稚な思考しかできないので、幼稚な判断、幼稚な行動しかできなくなるのです。子どもは成長するにつれて、知識を増やしていきます。そうすると、だんだん自分の中の客観的な『自分』との『会話』の内容が充実していきます。もちろん、周囲の人間との実際の会話も充実していきます。そうして、だんだんと深い思考ができるようになり、合理的な判断や行動ができるようになります。 そういう意味で私たちは『大人』になるべきです。「何でもネットで簡単に調べられるから、知識は無くてもいい」と言って勉強せずにいると『大人』

人はなぜ勉強するのか?(88)

    メタ認知の鍛え方①  「自分を疑え」「世界を疑え」 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(87) では、「メタ認知」が思考の深さに影響しているというお話をしました。 今回は、どうすればこの「メタ認知」の能力を鍛えられるか考えてみましょう。 自分の中の客観的な『自分』が自分を冷静に分析するのが「メタ認知」です。そう考えると、「メタ認知」を鍛えるということは、自分の中の客観的な『自分』を鍛えることに他なりません。 それでは、どうすれば自分の中の客観的な『自分』を鍛えられるのでしょうか。 私は、よく生徒に「自分を疑え」ということを言います。 問題を解いているときに、「この方法は間違っているかも」とか「計算ミスをしているかも」と疑うとそこで考えるようになります。 問題を解いているとき以外でも、「この勉強方法は間違っているかも」とか「この暗記方法より良い方法があるかも」と疑うことから、新しい方法を考えるきっかけになります。 自分を疑って、新しい方法を考えるときに、自分の中の客観的な『自分』と『会話』をします。 以前の 人はなぜ勉強するのか?(86) でクイズ番組の解答者が、「違うな」とか「そうじゃないか」といった自分の思考に対して疑問を投げかけている場面で行われていた自分の中の客観的な『自分』との『会話』や、なぜその考え方が間違っているのか『自分』に対して説明する行為も内なる『自分』との『会話』と同じです。 自分を疑うことを続けていくと、自分の中の客観的な『自分』との『会話』が繰り返されます。自分の中の客観的な『自分』との『会話』が繰り返されると、考える習慣がつきます。 考える習慣がついてくると、「なぜ」「どうして」というワードが頭に浮かぶようになってきます。あらゆる問題に対して、なぜこうなるのか、どうしてこうならないのかを考えるようになります。 そういった疑問に対処するには、知識を増やす必要性を感じて知識欲が増すことも考えられます。調べるとか専門家に尋ねるとか対処方法を検討したり、工夫したりしていくことで、さまざまな選択肢の中からベストな選択をできるようになるでしょう。このように、少しずつ合理的な判断ができるようになっていくのです。 現代の若い生徒たちは、とても優しい心の持

人はなぜ勉強するのか?(87)

  メタ認知は思考の深さに影響 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(86) では、クイズ番組などで解答者が、自分の中の客観的な『自分』との『会話』を通して、自分の思考に対して疑問を投げかけ、その都度なぜその考え方が間違っているのか『自分』に対して説明している様子から「メタ認知」のお話をしました。 私は、この「メタ認知」が思考の深さに影響していると考えています。 人はそれぞれいろいろなことを思考します。たとえ同じことについて考えたとしても、人によって思考過程も結果も違います。 これは、人によって「自分の中の客観的な『自分』との『会話』」が違うので当然のことです。 その自分の中の客観的な『自分』が、正しい知識で合理的な判断をできれば、正しい『会話』になり、正しい結果が得られるでしょう。 これは、前回の 人はなぜ勉強するのか?(86) でクイズ番組の解答者が、「違うな」とか「そうじゃないか」といった自分の思考に対して疑問を投げかけている場面で行われていた自分の中の客観的な『自分』との『会話』そのものです。そして、その都度なぜその考え方が間違っているのか『自分』に対して説明する行為も内なる『自分』との『会話』です。 一方、自分の中の客観的な『自分』が、間違った知識で判断したり、感情的だったりすれば、間違った『会話』になり、間違った結果が得られるでしょう。自分の中の客観的な『自分』が、何も語らないので『会話』にすらならない場合もあります。もっと悪い例でいうと、「面倒だからサボろう」とか「眠いから寝よう」とささやいてくるケースもあるでしょう。 以前の 人はなぜ勉強するのか?(85) で中学校や高校の勉強でつまずく原因を紹介しました。 中学や高校で勉強につまずく原因として、勉強方法が合っていなかったのに今までのやり方に固執しすぎたということがよくあります。 小学校時代はできていたのに中学校でできなくなったとか、中学で得意だった教科が高校で点数が取れなくなったというのがそれです。できていた時の勉強方法にこだわりすぎると新しい『敵』に対応できなくなるのです。 それ以外にも「メタ認知」が関係していると考えています。知識(「認知」)だけで点が取れた時期から急に点が取れなくなる時は、どれだけ深く

人はなぜ勉強するのか?(86)

     クイズ番組にみるメタ認知 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(85) では、予習・復習、勉強方法は千差万別で、どれが自分に合うか、途中で合わなくなった時にどう対応するかは、「自己を冷静に分析できるか」どうかが重要だというお話をしました。 自分の中の客観的な『自分』が自分を冷静に分析するのは、まさに『メタ認知』です。 最近は、現役の東大生や卒業生がメディアに登場して、さまざまなクイズ問題を解いているのをよく見かけます。 私が非常に興味を持ったのは、彼らが自分の思考を言語化して説明しているところです。 彼らの思考は通常の合理的な判断をする人間からすれば、ごくごく当たり前の思考経路をたどっています。ただ、通常はそれを頭の中で「自分の中の客観的な『自分』」と『会話』するので、他人が知ることはありません。 それを彼らはメディアを通して他人に伝えているのです。私たちが学ぶことがあるとすれば、ここです。 一般的に頭が良いとされている人間が、何を考えているのか、どのように考えているのか、どういう思考経路で正解にたどり着いているのかを知ることができるのです。 彼らの自分の中の客観的な『自分』との『会話』をよく聞いていると、「違うな」とか「そうじゃないか」といった自分の思考に対して疑問を投げかける場面が多々あります。そして、その都度なぜその考え方が間違っているのか『自分』に対して説明しています。 これこそ「メタ認知」です。 一般的なクイズ番組は、「知っている」か「知らない」かが問われます。「知っている」なら正解し、「知らない」なら不正解になるでしょう。このような知識の有無は「認知」です。以前の 人はなぜ勉強するのか?(80) での「認知」と「メタ認知」の違いを紹介します。 学んだことを覚えているだけでは、それはただの「物知り」です。その学んだ内容が何を意味しているのかという本質的な部分を考えたり、どう使うかという実用的な部分を考えたり、さらに上の次元へ思考を進めようというのです。 「物知り」が認知だとすれば、その認知を上の次元へ思考を進めて超越したものが、まさに「メタ認知」なのです。 その番組の司会者は、最初の問題で、漢字の送り仮名の問題ということもありましたが、問題を考えている解

人はなぜ勉強するのか?(85)

       人によって異なる勉強方法  自己を冷静に分析できるか 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(84) では、復習についてお話ししました。 予習でも復習でも勉強方法は千差万別です。人によって合う、合わないもあります。先生から言われた勉強方法がすべて正しいとはかぎりません。 私は、よく生徒に他の生徒や卒業生の勉強方法を参考に教えることがあります。もちろん自分の方法も伝えます。 しかし、そういった勉強方法を強制することはありません。人それぞれのやり方があるのを知っているからです。 それでも、ある勉強方法で結果が出ないなら、自分のやり方に固執することなく謙虚に他の勉強方法を試す重要性は説きます。 場合によっては、教えた2つの勉強方法を合わせたものが、その生徒にはしっくりくる勉強方法だったということもあります。 特に暗記の方法は、人によって異なる最たるものでしょう。みなさんそれぞれ自分のスタイルを持っています。 でも、もしかしたらもっと良い方法があるかもしれません。最新の脳科学の研究では、一昔前の常識が疑われることは珍しくありません。私は、そういうことも含めて指導しています。 いづれにしても、いろいろな勉強方法を学んで『引き出し』を増やしておくことは今後の人生にとって役立つでしょう。将来、今までの勉強方法が通用しなくなった時に別の『引き出し』から引っ張り出してきた方法が使えるかもしれません。 中学や高校で勉強につまずく原因として、勉強方法が合っていなかったのに今までのやり方に固執しすぎたということがよくあります。 小学校時代はできていたのに中学校でできなくなったとか、中学で得意だった教科が高校で点数が取れなくなったというのがそれです。できていた時の勉強方法にこだわりすぎると新しい『敵』に対応できなくなるのです。 そのような時に必要なことは、「自己を冷静に分析できるか」ということです。これは、以前の 人はなぜ勉強するのか?(79) や 人はなぜ勉強するのか?(80) でお話しした『メタ認知』です。 自分の中の客観的な『自分』が、自分を冷静に分析するのです。「この暗記方法で本当に覚えることができたのか」、「今の勉強方法で結果が出るのか」、「もっと良い方法があるかもしれない、試

人はなぜ勉強するのか?(84)

        復習について  現状を把握し、適切な課題を設定して取り組む 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(83) では、勉強を『「できる」から「楽しい」』という好循環にのせるのに、小さな成功体験を積み上げると良いというお話をしました。 また、「できる」ようになるには、予習が手っ取り早いというお話もしました。 以前の 人はなぜ勉強するのか?(78) では、このような提案をしました。 まず、事前に予習してみる。わからないところ、疑問点を明確にして授業に臨むためです。これだけで、授業中の集中力が大きく変わるのは当然でしょう。 授業中に疑問点が解消しない場合は、授業後に先生に質問するのが良いでしょう。 そして、学んだことは何度も復習する。 今回は、復習について具体的に説明します。 復習とは、学んだことを繰り返し勉強することなので、学校で学んだことをもう一度勉強するのが基本です。 その日の授業ノートを読み返すだけでも復習になります。これは簡単そうに聞こえますが、意外と誰もやっていないことです。 一般的に英語と数学は毎日勉強するように言われる教科です。復習としては、問題を解くことがメインだと思います。 授業で解いた同じ問題をもう一度解いてもいいですし、類題を解いてもいいです。一度解いた問題は、もうできるから時間の無駄だと考えて解かないで、別の問題に取り組んでもいいでしょう。 大事なことは、自分の現状を把握したうえで適切な課題を設定して取り組めるかどうかです。 一度解いた問題でも、もっと速く解くための訓練をするとか別の解法がないか考えるとか、その人が置かれた立場、テストまでの時間、他教科の勉強の進み具合などさまざまなことを勘案して、何をすべきか考えるのです。 理科や社会は週末にまとめて復習するのに良い教科です。学んだことを覚える時間を取ったり、ワークの問題を解いたりするのが良いでしょう。 理科や社会は、ある程度知識がついた状態で教科書を読むと効果的です。何もわからない状態で読むと苦痛を伴う本ですが、ある程度わかってくると面白い読み物に変わります。それくらい非常によくできています。 ボロボロになるまで教科書を読み込んでいる人は必ずその教科の達人です。 前 へ            

人はなぜ勉強するのか?(83)

       「楽しい」には「できる」が不可欠  小さな成功体験の積み上げを 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(82) では、何事も「楽しい」というのは、その行動を起こさせる原動力になるというお話をしました。 勉強も「楽しい」ことになれば、苦も無くできるようになり、何よりも優先して勉強するようになると思います。 ただし、これは言うほど簡単ではありません。 生徒にとっては、嫌でもやらなければならない宿題や課題もあるでしょう。テストになって点数化されれば、面白くない点数を取ってしまうこともあるかもしれません。 そのような勉強を「楽しい」と思うのは、とても難しいことです。 スポーツや趣味でも、それが仕事になって他人からの評価の対象になったり、生活がかかったりしてくるとプレッシャーになって、「楽しい」だなんて思えなくなるでしょう。 「楽しい」と思えるには、「できる」が必要です。 何度やってもできないものを「楽しい」と思うことは難しいことです。 何度も挑戦して、苦戦はするけど結局「できる」から、「楽しい」と思えるのです。 勉強も『「できる」から「楽しい」』という好循環に早くのせてあげることが重要です。 そのためには、小さい成功体験の積み上げが最も効果的です。 何でもいいから、「できる」ことをやってみる。そうすれば、それが自信になって「楽しい」につながっていくでしょう。 実は「できる」ようになるには、ずっとお話してきた予習が大事な要素です。というのも、予習では事前にある程度準備して勉強しているので授業中に「できる」からです。 授業中に先生に指名されて問題を解いたり、先生の質問に答えたりできれば、とてもうれしいと思います。 この成功体験が次につながります。また予習して、授業中に答えられるようにしてみようとなります。それを続けていると、先生からほめられることもあるでしょう。これは「楽しい」につながっていきます。 この状態が続けば、先生や周りの友達から「できるキャラ」として認識されます。一度「できるキャラ」になると、「できない」わけにはいかなくなります。もう勉強するしかありません。 『「できる」→「楽しい」→ 勉強する →「できる」→「楽しい」→ 勉強する』という好循環が生まれます。 前

人はなぜ勉強するのか?(82)

     「楽しむ」ことは原動力 「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(81) では、予習で疑問点・課題を明確にしてから授業に臨んで、疑問点が解消されなければ先生に質問するべきだというお話をしました。 質問の内容は、予習の段階で考えたことを反映させると良いでしょう。特に数学の場合、答えは一つでも解法は一つとは限りません。自分で考えた解法が正しいかどうか質問して確認すると指導者はやる気を感じるというお話もしました。 そういう生徒だと指導者はあれも教えたい、これも教えたいとなってしまうのですが、一から十まで教えてしまうのは良い指導とは言えません。 前回の 人はなぜ勉強するのか?(81) の最後に書いたように「自分で気づいた方が100倍楽しい」こともあるのです。 何事も「楽しい」というのは、その行動を起こさせる動機付けには最も重要なことです。 『論語』にもこうあります。 知之者不如好之者、好之者不如楽之者 之(これ)を知る者は之(これ)を好む者に如(し)かず。之(これ)を好む者は之(これ)を楽しむ者に如(し)かず 物事を知っている人はそれを好んでいる人には及ばない。物事を好んでいる人は、それを楽しんでいる人には及ばない。 「知っている」人は「好んでいる」人にかなわない、「好んでいる」人は「楽しんでいる」人にはかなわないということです。これは、共感できる人も多いのではないでしょうか。 趣味でもスポーツでも何でもそうですが、楽しんで物事に取り組んでいる人は最強ですよね。どんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても、楽しいから続けられる、続けたいと思えるのですから。 先日、ある生徒と課題を一緒に取り組んでいる時に「先生は楽しそうだ」と言われてはっとしました。 私は確かに面白い課題だと思って楽しんでいましたが、ふつうはそう思わないのかと。 生徒にとっては、期限があってやらなければいけないことだったり、成績がついて何らかの判断がくだされるものだったりするので、楽しむどころではないのかもしれません。 私は、自ら学ぶことを楽しむことで生徒に「勉強は楽しいものだ」と伝えられればと思います。 前 へ                            

人はなぜ勉強するのか?(81)

     予習で疑問点を明確に、解消しなければ質問しよう 「不日如之何」 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(80) と前々回の 人はなぜ勉強するのか?(79) では、数学の予習において、わかっている部分とわからない部分をはっきりさせ、疑問点(学ぶべきことと言い換えてもいいでしょう)を明確にしてから授業に臨むと理解力が増すというお話をしました。 そして、もう一人の客観的な自分に対して「わかっている部分とわからない部分をはっきりさせる」ことや、学んだ内容をさらに思考して学びを深めることは、メタ認知といって勉強する上で非常に重要な力だというお話もしました。 常に「なぜこうなるのだろう」とか「これは何を意味しているのだろう」と自分の中のもう一人の自分に問いただして思考を深めているのです。 学んだ(認知)ことをさらに深く思考する(メタ認知)ことで、一つ学んだことが二にも三にも十にもなるのでしょう。孔子が言っていることは、首尾一貫しています。 指導者として、何がわかって、何がわからないのかがわかっている生徒に教えるのは簡単です。わからないところをピンポイントで指導すればいいのです。 そのうえ、そういう生徒はその疑問点を解消しようという意欲にあふれています。乾いたスポンジが水を吸収するように、指導した内容を自分のものにしていくでしょう。 以前の 人はなぜ勉強するのか?(75) や 人はなぜ勉強するのか?(76) で紹介した「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず、悱(ひ)せずんば発(はっ)せず」は、学ぶ者のあるべき姿勢を表していますが、次に紹介する『論語』の一節もそうです。 不曰如之何、如之何者、吾末如之何也已矣。 之(これ)を如何(いかん)せん、之(これ)を如何(いかん)せんと曰(い)わざる者は、吾(われ)、之(こ)れを如何(いかん)ともすること末(な)きのみ。 これをどうしたらいいだろう、どうしたらいいだろうと自分から積極的に言わない者には、わたしはどうすることもできない。 予習によって疑問点、課題が明確になりました。授業でその疑問点が解消されなければ、先生に質問するべきでしょう。 積極的に質問するのは大事なことですが、質問の内容にはくれぐれも注意しましょう。 授業で先生が指導した内容

人はなぜ勉強するのか?(80)

    メタ認知  「学而不思則罔」 前 へ                       目次 へ                次 へ (前回の 人はなぜ勉強するのか?(79) のつづき) 勉強する過程で、もう一人の自分に対して説明をすることがあります。 人に説明できるレベルであれば、それは理解していると同じことでしょう。 常にもう一人の自分に対して自問自答することで、より正確に勉強が進みますし、納得できれば理解力も上がります。 これこそ「メタ認知」ですが、2500年も前にすでに「メタ認知」について孔子が理解していたと思うと孔子の偉大さに圧倒されます。 学ぶことや考えることについて、深く思考した結果でしょう。 『論語』の有名な一節です。 学而不思則罔。思而不学則殆。 学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則(すなわ)ち殆(あやう)し。 教えを学んでも自分で考えなければ、はっきり道理を理解できない。自分で考えるだけで人から学ばなければ、(独りよがりになって)危険である。 「罔」という字は、『漢字源』によると「物にかぶせて隠す網」という意味があるようです。そこから転じて「あみをかぶせたように見えない。道理に通じていない。」という意味になったようです。 教えを受けても、それを自分で考えて自分なりの理解に落とし込んでいかなければ、網をかぶせられた人のように真っ暗で何も見えていないのと同じで、何もわかっていないと孔子は言うのです。 今学んだことと以前学んだことを比較したり、どのように役立たせられるか考えたりすることで、より深い理解に到達することでしょう。 また、自分で考えるだけでは、自分勝手な論理で誰も納得してくれないかもしれません。人から学ぶことで、客観性を持ったバランス感覚の良い人間が形成できるのではないでしょうか。 学んだことを覚えているだけでは、それはただの「物知り」です。その学んだ内容が何を意味しているのかという本質的な部分を考えたり、どう使うかという実用的な部分を考えたり、さらに上の次元へ思考を進めようというのです。 「物知り」が認知だとすれば、その認知を上の次元へ思考を進めて超越したものが、まさに「メタ認知」なのです。 前 へ                             目次 へ                       

人はなぜ勉強するのか?(79)

  予習の具体例 ②  数学  「知之為知之」  メタ認知とは? 前 へ                       目次 へ                次 へ (前回の人 はなぜ勉強するのか?(78) のつづき) 数学の予習は、余裕があれば教科書の例題を解いてみるのがいいでしょう。解かないまでも、解法を読むだけでも勉強になります。 解法の途中でわからないところが出てきたらラッキーです。それがそのまま疑問点です。 なぜその式が導かれるのか途中でわからなくなることはよくあります。 「この問題のここまでわかったけど、ここから先がわからない」と質問する生徒がいたとしたら、彼もしくは彼女は完璧な学ぶ姿勢を持った生徒です。 何がわかって、何がわからないのかがわかっているのですから。 『論語』にもこういう一節があります。 知之為知之、不知為不知。是知也。 之(これ)を知るを之(これ)を知ると為(な)し、知らざるを知らずと為(な)す。是(こ)れ知るなり。 自分がきちんと知っていることを「知っている」とし、自分がきちんと知らないことは「知らない」と認識する。これが「知る」ということである。 「知っている」ことと「知らない」ことをはっきりと区別できることで、中途半端に知ったかぶりをすることもなく、「知らない」ことを謙虚に学べばその人の成長につながります。 この「自分がきちんと知っていることを『知っている』とし、自分がきちんと知らないことは『知らない』と認識する。これが『知る』ということだ」ということを考えるとき、私は「メタ認知」という言葉を思い出します。 メタ認知とは『広辞苑』によると「自分で自分の心の働きを監視し、制御すること」とあります。 英語で、metaというのは単語の前につく接頭辞で、「より高度な」とか「より超越した」という意味を持っています。 メタ認知とは「より高度な認知」ということなので、自分の認知(知識や考え)をさらに認知するということです。つまり、自分のことを冷静に見つめる自分がいて、その客観的な自分が自分を分析するようなイメージです。 このメタ認知は、勉強する上で非常に重要なことだと思います。というのも、もう一人の客観的な自分に対して自問自答することが勉強する過程で重要だからです。(つづく) 前 へ                             目次

人はなぜ勉強するのか?(78)

  予習の具体例①  英語・古典・理科・社会 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(77) では、勉強するにあたって、予習・復習が大事だと論語に書いてあるので、まず試してみようというお話をしました。 まず、事前に予習してみる。わからないところ、疑問点を明確にして授業に臨むためです。これだけで、授業中の集中力が大きく変わるのは当然でしょう。 授業中に疑問点が解消しない場合は、授業後に先生に質問するのが良いでしょう。 そして、学んだことは何度も復習する。 一つ一つ具体的に説明していきます。 まずは、予習についてです。科目によって予習の仕方が違います。当然、授業を行う先生によっても違います。基本的には先生の指示に従うのが良いでしょう。 英語や古典は、予習が宿題にされることが多いですね。教科書本文の和訳や現代語訳が予習になります。 わからない語句を辞書で調べて訳していく過程で、どうしてもうまく訳せない部分があると思います。 文法がわからないからなのか、語句の意味を取り違えているのか、何が問題で訳すことができないのか疑問を持つはずです。そうすると、授業中にこの問題を解消しようと、先生の話を集中して聞くようになるのです。 理科や社会の予習であれば、教科書を読む程度でも十分でしょう。予習で教科書を読むときは、何かを覚えようとか学ぼうとか思うと辛くなって続かないので、気楽に雑誌や漫画を読むくらいのつもりで読みましょう。 読み進めていくうちに疑問点が浮かんでくるはずです。 例えば、中学の歴史の教科書で、「アメリカは日本を開国させるために東インド艦隊司令官ペリーを派遣し、大統領の国書を日本政府に渡すことにした」という部分を読んだとしましょう。 ここで「この時のアメリカの大統領って誰だろう」と疑問に思いませんか。 中学レベルではテストで問われることはないでしょうから、そういう意味では知る必要はないかもしれません。 しかし、高校の日本史の教科書(山川の詳説日本史)には「アメリカ東インド艦隊司令官ペリーは、軍艦(「黒船」)4隻を率いて6月に浦賀沖に現れ、フィルモア大統領の国書を提出して日本の開国を求めた」とあります。 つまり、高校レベルでは知っておいて損はない知識なのです。私は不勉強で知りませんでし

人はなぜ勉強するのか?(77)

  復習も大事「学而時習之」 前 へ                       目次 へ                次 へ 前回の 人はなぜ勉強するのか?(76) では、論語の一節から、教えを受ける生徒は事前にしっかり準備することで意欲もみなぎり、教わったことが何倍もの効果を得られるというお話をしました。 簡単に言うと、「予習が大事ですよ。そうすると知りたいことがどんどん浮かんできて、先生の教えを意欲的に受け入れることができるよ。そして、先生に少し教わっただけで、事前の勉強内容と繋がってより多くのことが学べるよ」ということです。 予習も大事だけれども、復習も大事だと論語では言っています。 學而時習之。不亦説乎。 学びて時に之を習う。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。 学んだことを、機会あるごとに復習し身につけていく。なんと喜ばしいことか。 漢字源によると、「習」という字は「いくえにも重ねる。広く、なんども重ねて身につける」という意味があるそうです。「習」の漢字の部首である「羽」の部分は、鳥が何度も羽を動かす動作を繰り返すことを示しています。 学んだことを何度も何度も繰り返し復習することで、学んだことが身につくということでしょう。 これは論語の最初の一節です。論語は、先生である孔子に学んだことを弟子たちがまとめたものなので、孔子が学ぶこと、そして復習することがいかに大事か、楽しいことであるかを伝えています。 孔子は紀元前500年頃の中国に生きていた人です。日本では弥生時代が紀元前300年頃からなので、稲作がまだ伝わっていないような時代のお話です。 それから約2500年経った現代でも人々に読み継がれているという事実が、孔子の教えの普遍性を物語っています。 2500年もの間残っている考え方であれば、そこに一定の真理があると考えるのが合理的な判断です。もちろん、この勉強方法が人によって合う、合わないはあるでしょう。だからこそ、まず試してみると良いと思います。 まず、事前に予習してみる。わからないところ、疑問点を明確にして授業に臨むためです。これだけで、授業中の集中力が大きく変わるのは当然でしょう。 授業中に疑問点が解消しない場合は、授業後に先生に質問するのが良いでしょう。 そして、学んだことは何度も復習する。次回は、もっと具体的にお話しします。 前 へ